メルマガ会員登録はこちら

海外不動産投資コンサルティング
  • TOP
  • コラム一覧
  • 出稼ぎ労働者あふれる街 ドバイに見る一帯一路②

COLMUN
元テレビ朝日台北所長の海外放浪記 
四方見聞録
~摩天楼から一膳飯屋まで~
~世界が、人が、そして心が見える~

出稼ぎ労働者あふれる街 ドバイに見る一帯一路②

ドバイ

2019.06.03

ドバイの競馬場

ドバイ到着の翌朝、陽が昇る前からメイダン競馬場に出かけた。これも毎年の決まったコースである。メイダン競馬場はドバイ市街地中心部からバスで20分ほどの新開地にあり、それまでのナドアルシバ競馬場に代わって2010年1月にオープン。日本一の東京競馬場も裸足で逃げ出したくなるほど豪華なメイダン競馬場で競馬が開催されるのは秋から3月末までの約半年間だけ。4月以降、ドバイの気温は40度を超え、とても競馬などできる陽気ではなくなるからだ。その掉尾を飾るのが毎年3月最終土曜に開催される「ドバイ・ワールドカップ・デー」。世界最高賞金のドバイ・ワールドカップを最高峰として6つのグループⅠ(GⅠ)で競走が行われ、日本を含めた海外の強豪馬がこの地に結集、雌雄を決する。日本からは毎年、10頭以上の競走馬がドバイ・ワールドカップ・デーの諸競走に挑戦している。

前回も触れたがイスラム教国のドバイでは一切の賭け事が禁止されていて、馬券は一切販売されない。賞金は競馬好きのドバイ首長、シェイク・モハメドことムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下のポケットマネーとスポンサー企業からの協賛金で賄われるという世界でも稀な世界一豪儀な競馬である。馬好きのシェイク・モハメドがイギリス留学中に競馬、馬産に興味を高め、石油の埋蔵量の少ないドバイの国造りの中心に観光立国を据えたためである。また、サラブレッドはその父系を遡るとアラブ馬2頭、トルコ馬1頭に辿り着く。これを戦利品として収奪したイギリスが在来馬と交配を重ねた結果、生まれたものであることはよく知られている。シェイク・モハメドはサラブレッド、競馬の原点であるアラビアを世界の競馬の中心として再興したいとの思いから1995年、ドバイ・ワールドカップを開設したとも漏れ聞く。

超豪華な競馬場には5つ星、いや6つ星のメイダン・ホテルが併設。ドバイ・ワールドカップ・デーの1週間は世界から馬主、調教師、騎手に競馬主催団体のトップが宿泊し一般観光客はオフリミット。ホテルは世界中の競馬サークルトップが一堂に会する競馬社交界のパーティー会場と一変する。ここに顔を出せば、朝から深夜まで世界の競馬情報を当事者から直接耳にすることができるのだ。
夜明け前のメイダン競馬場に向かうと、砂漠の国には大粒の雨が落ちている。♪砂漠に日は落ちて夜となる頃~♪とは日本では珍しいアラビアをテーマにした歌謡曲「アラビアの唄」(昭和2年、二村定一)だが、今や地球温暖化なのか気候変動なのか、ここ数年は砂漠の国の3月は日だけではなく雨粒が落ちることも多くなった。一昨年などはレース前々日に大雨が降り、レーストラックばかりは周辺が水浸しとなる始末。この朝もレーストラック脇に合羽を着ているだけでは雨を凌げなくなり、スタンド階上のプレスルームへと避難せざるを得なかった。
プレスルームから雨に曇るレーストラックを走る日本馬を眺めようと室外の観戦シートに向かうと、褐色の従業員がタイル張りの床をモップで拭いている。ドバイに来ると競馬場やホテルの従業員に出身地を訊くことが楽しみになっている。
「どこから来たの?」
「インドからだよ」
「1月にはムンバイに行ってきたけど、インドはどこ?」
「カルカッタさ。いい街だよ、今度行ってみてよ」

ドバイの人口は約240万人(2016年1月)。1980年には28万人足らずだったドバイはシェイク・モハメドの観光・金融立国で成長を遂げた。しかし、定住人口のうち地元、アラブ首長国連邦の国籍を持つものは僅か17%。その他は出稼ぎ労働者が占める。その最大勢力はインド人で53%、建設労働者からタクシー運転手、そしてメイダン競馬場で出会ったような競馬場の清掃作業から馬の世話をする厩務員、調教を付けるライダーまで業種を問わず出稼ぎに勤しんでいる。そしてパキスタン13.3%、バングラディシュ7.5%、フィリピン2.5%、スリランカ1.5%と続く(2013年)。陽気なフィリピン人はホテルなどのサービス業や家政婦、看護師などで活躍。給与がいいからとドバイで看護師に転業する医師も少なからず、本国でも医師不足を招いているという。
さて我が中国同胞はドバイにいるのか?どこにいるのか? 朝の調教を見終えて宿泊先のホテルに戻り午睡をとった後、前日にドライバーが道に迷って行きついた「中国建築」の工事現場に向かうことにした。(続)

甘粕代三(あまかす・だいぞう)
1960年、東京は隅田川の畔で生まれる。早大第一文学部在学中に中国政府給費留学生となり大陸へ2年遊学。東京新聞記者、テレビ朝日台北・マニラ支局長、サンデープロジェクト・チーフディレクター、朝まで生テレビ・プロデューサーなどを経て売文業。アジアを中心に世界各地を流浪、日本、香港、台湾、大陸で時事、競馬評論を展開中。